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京大院卒サラリーマンの思考履歴(仕事術・資格勉強などの自己啓発,理系就活,修士研究,株式投資など)

”他人は他人”と割り切る勇気 人間関係で悩むあなたへ

幼い頃、ゲームを持っていた友達のことをとても羨ましく思い、

親父に自分も買ってほしいと頼んだことがあった。

その時、親父は「よその子は、よその子。あんたはうちの子。」

と言うだけだった。当時小学2年生、全くもって納得できなかった。

 

それも当然だ。なぜ、同じ小学校に通う、同い歳の友達は、

誕生日にゲームを買ってもらえるのに自分はダメなのか、などと考えていた。

皆もゲームに限らなければ、似た経験はあるかもしれない。

 

ただ、この ”うち” と ”そと” や ”自分” と ”他人” のように、

物事に一本の線を引き、"自分が支配する(できる)対象" と "支配できない対象"を

区別するような思考は、この世のありとあらゆる所で見られ、

社会システムの本質とも言える。

 

例えば、社内調整、対外取引、自然災害(自然現象)と防災(技術)、国際政治など、

挙げるとキリがない。自分たちのコントロールできるもの(手札)の中から

打ち手を選択し、それを実行することで成り立っている。

 

時は流れ14年後の大学3回生のある日、親父に大学は楽しいかと訊かれことがあった。

当時の自分は「学業において自分と同程度に熱中する仲間がおらず、張り合いがなく、

何となく寂しいし、面白みに欠ける」という不満を大学入学後の早いタイミングで

抱いており、思い悩んでもいた。そのことをそのまま親父に伝えた。

共感してもらえると思ったが、答えは違った。

 

「他人は他人。それはお前のエゴ(利己主義)でしかない。」

要は、各人がどれだけ学業に注力するかは、目的や目標をどこに置いているのかで

変わるものであり、それを自分なんかがどうこうしてコントロールすることなんて、

不可能だし、そもそもすべきことでもないということだった。

 

皮肉にも14年前と本質的には同じことを親父に言われたのだった。

しかし、今回はその言葉を理解し、納得できる頭を持ち合わせていたし、

その言葉に救われたというのが正直なところだった。

 

考えてもどうしようもないことで悩み続けるのは、時間と労力の無駄でしかない。

この言葉は、自分が切磋琢磨できる仲間を求めて京都大学大学院への進学を

志すようになった一きっかけである。

一般化した表現にすると、自分がコントロールできるのは”自分自身の行動"と

"自分が身を置く環境"であることを認識した上で、環境を変えるという選択を

行ったということになる。

 

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理想を言えば、友達と同じように自分もゲームを買ってほしかったし、

大学の学科の同期にも自分と同じくらい学業に取り組んでもらい切磋琢磨したかった。

 

そのような個人的な感情を抱いてしまうことは人間である以上仕方がないが、

ただ、時には”他人は他人”と割り切る勇気を持つことも、

人生を上手く生きていくためには必要なことかもしれない。

 

この思考法は、その後も大いに役立ったと感じている。

例えば、他人には他人の目指す道や利益があるという大前提を意識することで、

その人の考え方が自分と異なるのもごく当然と感じることができるようになり、

結果として他者の様々な意見を許容しやすくなった。

また、他人に対し一方的に行き過ぎた期待を寄せることを辞めたことで、

仮に自分の思い描いていたものとは異なる結果になっても、

期待を裏切られたような感覚は殆ど無く、それによるストレスを抱える

というようなこともほぼ無くなったなった。

 

後日談として、小学生2年生の少年は、親戚一同で集まった際に叔父と結託し、

父親を説得して見事ゲームを買ってもらったとか。

友達全員にゲームをするのを辞めさせたり目の前に出さないようにすることは

非現実的で不可能と無意識に判断し、助っ人を連れて父親を説得する

という行動をとったのかもしれない。

 

 

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